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『原発を考える50話』
西尾漠 岩波ジュニア新書 最新のコメント
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『アブサロム、アブサロム!』はアメリカ南部ミシシッピ州の架空の地「ヨクナパト―ファ郡」を舞台にした連作(これを「ヨクナパト―ファ・サーガ」という)の中のひとつです。
この小説はとても変わったスタイルで書かれています。 南北戦争に先立つ1830年代ひとりの男がこの地にやってきます。 彼の名はトマス・サトペン。 このサトペンの身辺に起こった出来事を、後年、複数の人間が語る、という形式で 物語は成り立っています。 といっても、語る人物は、それぞれサトペンに対して憎しみを抱いていたり、また傍観者であったり。しかもサトペンとは世代が違っており、同時代でつぶさに出来事を見てきたわけでなく、人から聞いたり、憶測や偏見を交えたり、そいうことを非常に雄弁に語ります。 その上、話の内容が時系列ではなく、時間を行ったり来たり、 今何のことを話してるんだ?と読み手は常に揺さぶられます。 この独特な時間の移り方や、あふれんばかりの言葉で語る声によって、 すでに過ぎ去ったはずの過去がゆらゆらと幽霊のように立ちのぼって今も漂っている、 というような不思議な感覚を覚え、それは息苦しいほどの閉塞感です。 話を聞いているのは大学進学を間近に控えたクエンティンという青年。 彼もやはりヨクナパト―ファに代々住む家の一人です。 小説の後半はこのクエンティンが故郷から離れた大学の寮でルームメイトに、 サトペンのこの話を語り聞かせ、ふたりでサトペン一家に起きた悲惨な出来事を 検証し、再構築していくという内容です。 読んでいくうちに、サトペンという男、彼がしてきたこと、しようとしていること、その家族、彼らを見舞った出来事、それらが少しずつ、霧が晴れて行くように薄ぼんやりと形を成していきます。(それでもまだはっきりと明らかではない、なぜなら、ほとんどが主観を通した推測の上に再構築されているのだから。) 当時のアメリカ南部は奴隷制の基盤の上に経済社会が成り立っていて、それを抜きにはできない。階級は白人と黒人の二重構造を持っていてしかも明確に区切られています。 白人としては最下層(黒人奴隷の上層よりも下)の出であるサトペンは大きな農園領主になって奴隷を所有する身分になろうと計画します。すべてがこの計画に沿って運ばれ、計画の邪魔になるものはきれいに捨て去ります。それが不可能であるにもかかわらず。 事実彼はこの町に来る前妻子を捨てています。 理由は妻に黒人の血が流れていることがわかったから。 そういうことができる人物のように語られてます。 サトペンは彼個人であるというより、アメリカ南部の土で育てられた人間と見ることができます。もっと言うなら南部をもっとも端的に体現した人間だと。そこに人間を人間として見る目はありません。妻や子どもでさえ、愛情をかける対象ではない、いや愛情を持つこと自体できない。このことが皮肉にも後に「計画」の崩壊を招き、自分の息子の命までを奪っていきます。 クエンティンは大学の寮で友人と、サトペンやその子どもたちが迎えた悲惨な結末について話し合うのですが、彼には彼の暗い内面があり、自分をサトペンの息子のヘンリーに投影します。投影というより同化と言った方がいいでしょうか。ヘンリーを軸としたサトペンの子どもたちの複雑な関係の中に、クエンティンも巻き込まれてしまったかのようです。 クエンティンもまた南部の水に浸された人間であることから逃げられないでいるのです。 ヨクナパト―ファ・サーガの他の作品に『響きと怒り』という小説があって、ここではクエンティンは主人公(のひとり)です。この寮での会話の翌年、彼は自殺を遂げます。 これを先に読んでいると、ヘンリーの問題がクエンティン自身の問題でもあったことが よくわかります。 ヘンリーがとらざるをえなかった行動に、彼は自分の未来の絶望をはっきりと見てしまったのではないでしょうか。 例に見ず、長ったらしい文になってしまいました。 一通り読んだくらいでは「サトペンの物語」を辿るのさえ困難でした。 ところどころ読み返したり、読み返したり・・・ この小説の内容である「サトペンの物語」自体要約することがむずかしいのですが、 さらに要約不可能なものをこの小説は持っています。 それこそがこの小説の本当の姿であると思うのですが、 それは「サトペンの物語」が各々の語り手にとってどういう意味を持っているか、 ということです。 彼らの各々の声、言葉は、サトペンの人物や所業を語りながら、彼ら自身をも語り、 そして彼らがまぎれもなくサトペン同様に南部という土地にからめとられている、 ということに否応なく気付かされます。 南部という閉じた輪の中で、人々のせめぎ合いがあります。 その土地あるいは文化と人とのせめぎ合い、人と人とのせめぎ合い、 過去と現在とのせめぎ合い、それらが、彼らが発する言葉となって、 びっしりと紙面をおおっているかのようです。 それゆえ、サトペンを巡るかれらの言葉がこの小説の本質であり、 それゆえに、この小説はこういう形式で書かれなくてはならなかった、と思うのです。 フォークナーが描き出そうとした南部は、 その断片だけはどうにか知ることができました。 南部の歴史というのは、そこで生きた人が描いてきた軌跡です。 土地の呪縛というのは人が積み重ねてきた負の遺産です。 そこに生を受け育ったものは、その呪縛からのがれることはできない、 と彼は言っています。 語り人たちはそれぞれに南部を背負い、それぞれに葛藤し、生きあぐねています。 彼らの声は本当に切実なものなのです。 『アブサロム、アブサロム!』というタイトルは、旧約聖書から引用されました。 ユダヤの王ダビデが息子アブサロムの死を悲しんで言った嘆きの言葉です。 息子を失くした父親の嘆きの声、もっとも深い悲しみの声です。 サトペンは息子を失ったと知ったとき、そのような嘆きの声を発したのでしょうか。 (それは誰も知り得ません。) 一年後クエンティンの父(語り手のひとりでもある)が息子の死を知ったとき やはりこのような苦痛の言葉を吐いたであろうと想像します。 この小説を読むということは、人々の語る言葉を聞くということに他なりません。 それは新鮮で、原始的な、多くの声が耳に残る不思議な読書体験です。 ![]()
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